種田山頭火という俳人の足跡

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種田山頭火(たねださんとうか)、本名正一 (しょういち)は1882年(明治15年)、 現在の山口県防府市(ほうふし)に生まれました。

山頭火は、五七五などの定形に縛られず、自由律という新しいリズムを宿した俳句を作り、酒での失敗が多く、曹洞宗の僧になり、日本全国をさすらう行乞の旅を続け、今でも愛される自由律俳句を多く残し、五十八歳で四国・松山で生涯を終えました。

山頭火の父(竹次郎)は、自分の土地だけを歩いて電車に乗れたほどの大地主で”大種田”と呼ばれるほど資産家であったようで、幼少の正一(山頭火)も何不自由ない生活を送れるような名家の生まれだったようです。

しかし、父の酒癖と女遊びの影響で10歳のときに母(フサ)が自殺。 この出来事以降も、父の事業失敗による破産、弟(二郎)の自殺、自身の服毒自殺未遂など、山頭火の歴史には暗い影が付きまといます。

どうしようもない私

山頭火自身も酒での失敗は多く、1924年(大正13年)の12月、42歳の山頭火は、熊本市内で泥酔し市電の前に立ちはだかり電車を止める、という事件を起こす。 この事件をきっかけに山頭火は出家得度し「耕畝(こうほ)」と改名、 熊本県植木町にある味取(みとり)観音堂の堂守となります。

山頭火の得度の理由として「出家」という功徳を積むことで、自害した母の魂を成仏させる目的もあったようです。

しかし、「どうしようもない私」の山頭火は、さびしく、しづかな独りの生活に耐えられず(味取観音堂から熊本市内にお酒を飲みにちょくちょく通っていたようですが)とうとう翌年の1926年、 43歳で全国を托鉢してまわる旅に出るのでありました。

ここから山頭火の新たな旅が始まります。

山頭火を読むにあたって、いつ?どこで?どんな状況で?詠まれたものかを知ると、より深く一句一句がいきいきと味わえると思い、下に簡単なプロフィールを作成してみました。

山頭火の訪れた地名や旅の足跡も簡単に書き込んだので、どこから来てどこに向かうのかを知ってみると、また違った感じ方が出来るかも知れませんね。

種田山頭火略歴

西暦(元号)年齢主な出来事や訪れた場所
1882(明治15)12月12月3日、現・山口県防府市八王子2-13に種田家の長男として誕生
父・竹次郎、母・フサ
1892(明治25)93月母が井戸へ投身自殺
1902(明治35)209月早稲田大学大学部文学科に入学
1904(明治37)222月神経衰弱のため早稲田大学を退学。7月に実家へ戻る。
1906(明治39)2412月竹次郎が現・防府市大道の酒造場「山野」を買収、種田酒造場を開業
1909(明治42)278月サキノ(20)と結婚、翌年に長男健が誕生
1911(明治44)29防府の郷土文芸誌『青年』の同人となり「田螺公」名義で定形俳句を発表
1913(大正2)313月号【層雲】(荻原井泉水が主宰)に投句した二句が掲載(次号より山頭火名義)
1914(大正3)3212月山口県田布施町の「層雲山口周東大会」に参加、井泉水(30)に初対面
1916(大正5)344月種田酒造閉鎖、父竹次郎行方不明。逃避先の熊本にて古書・額縁「雅楽多」を開業
1918(大正7)357月岩国の山中にて弟二郎自殺
1919(大正8)3610月熊本へ妻子を残し単身上京、額縁行商
1920(大正9)373月麹町隼町、7月本郷湯島転居、11月戸籍上の離婚
1921(大正10)286月東京市事務員正式採用、翌年退職(同年5月、父竹次郎死亡)
1922(大正11)3910月神経衰弱のため熊本へ一時帰郷後東京へ戻るが退職
1923(大正12)4010月9月の関東大震災の混乱の中、刑務所へ逗留され帰郷
1924(大正13)4112月熊本市内で泥酔、路面電車を止め、報恩寺・望月義庵和尚へ預けられる
1925(大正14)422月得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。7月大牟田、8月防府墓参、10月大分佐伯
1926(大正15)434月10日、(日記を焼き捨て)味取観音堂を去り、熊本、高千穂、日向へ向かう
(3日前の4月7日、尾崎放哉逝去。享年41)
8月宮崎市より延岡へ海岸線を北上し、田川糸田町の木村緑平を訪問
1927(昭和2)45その後、佐賀唐津、北九州、山口の寺を巡り、翌年まで八ヶ月かけて四国八十八ヶ所お遍路巡拝
途中、尾崎放哉の墓参りを果たす
1930(昭和5)479月それまでの日記を焼き捨て、9日、熊本八代より旅に出て、行乞記を書き始める
10月鹿児島志布志、宮崎日南、11月耶馬渓、湯布院、八幡、門司、山口、12月熊本帰郷
12月25日熊本市内の民家の2階を借り「三八九居」とする(翌年6月まで)
1931(昭和6)4812月三度目の旅に出る。味取観音から飯塚、27日太宰府天満宮、
1932(昭和7)491月1月糸田(木村緑平邸)、赤間、神湊、佐賀唐津、
2月〜長崎、嬉野、佐世保、平戸、伊万里、唐津、博多
5月糸田(木村緑平邸)、山口川棚、発熱、糸田(木村邸)
6月句集「鉢の子」発刊、川棚温泉に8月まで100日間逗留
9月現・山口市小郡に【其中庵(ごちゅうあん)】を結庵。9/21其中日記〜
1933(昭和8)503月大山澄太、5月義庵和尚、11月荻原井泉水を招いて句会を開催
1934(昭和9)513月井上井月の墓参りの旅、広島(大山澄太邸)、神戸(海路)、京都、名古屋、岐阜、
4月長野飯田、清内路峠で迷い雪の中を野宿、飯田に戻り肺炎で入院、墓詣で中止、
広島(大山邸)を経由し4月29日其中庵へ帰庵
1935(昭和10)522月第三句集「山行水行」発刊
8月7月末〜8月3日まで九州短期旅、門司-八幡-小郡駅福岡宗像、
隣船禅寺(「松はみな枝たれて南無観世音」の句碑の前で撮影)、飯塚、下関
8月5日、多量の睡眠薬を服用し自殺未遂
12月6日、また旅に出る。
1936(昭和11)531月岡山(稀也邸)、広島(大山邸)から北九州、八幡、
3月、門司から神戸への船旅。
神戸、大阪、京都、芭蕉遺跡探索、津、伊勢神宮、名古屋、浜松、鎌倉
4月、層雲社の句会のため東京へ、その後、伊豆、熱海、また東京へ戻り「層雲東京大会」へ出席
5月、甲府、浅間山、軽井沢、長野、小林一茶遺跡巡り
6月、新潟、長岡、出雲崎、良寛遺跡巡り、仙台、深酒興じ、恥じて頭陀袋を焼く
7月福井(永平寺)、大阪、広島(大山邸)、帰庵
1938(昭和13)5511月山口市湯田温泉に【風来居】を結庵(其中庵の破損が激しくなってきたため)
1939(昭和14)563月31日、井上井月の墓参りのため出立。広島、
4月、大阪、京都、愛知伊良湖崎、静岡浜名湖、静岡
5月、長野、5月3日井月の墓を撫でる。その後、大阪、名古屋、兵庫、帰庵
山口市、風来居でのんびり過ごす
7月、山口市吉敷龍蔵寺へ日帰り
8月、旅の準備を始める
10月二度目のお遍路へ。松山、高松、小豆島、放哉の墓参(二度目)、11月松山へ戻る
12月愛媛県松山市で【一草庵】を結庵
1940(昭和15)574月28日、「柿の会」結成、一代句集「草木塔」発刊、5月広島、防府、山口、小郡、旅、6月帰庵
10月11日、脳溢血にて死亡

印刷して使えそうな画像も用意しました

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山頭火資料1
山頭火資料2